「生きづらさ」は、こういう角度からも考えるべき。

前回記事とかを読んで、おそらく誰でも分かる通り、
私という人間は、大概ふつうではない(笑)
不安障害であり、
考えが人格障害的でもあり...。


根本的にふつうでないような奴が、
ふつうな一般的な世の中に、「合わせる」ことのデメリットというものも実はあるのだ。「生きづらさ」は、その角度からも考えなければ片手落ちだ。
これ、内容のほとんど、ある人が言っていた内容の受け売りではあるが、今回はその話。

そのデメリットは、大きく3つある。
①自分の固有的な「世の中への疑問」の芽が育ちにくくなる。
つまり、
現在、まだ常識とはなっていない「新たなもの」への感度が低くなる。
②自分自身が、本当に好きなもの、何をおいてもそれがやりたいというようなものを見失ってしまう。
③合わない人間とも折り合って行くのが上手くなるにつれ、人間関係の質が軽く薄味のものばかりになりやすい。

他人の意見だが、
自分自身の例に照らし、順番に見て行きたい。
まず、①にも②にも、とても分かりにくい使われていると思う。
「固有的な疑問」って何だろう?
「本当に好きなもの?」何だろう?
そういうふうに思うのは、おそらく「ふつう」なのであろう。こんな文章読む必要性ない人なのであろう(笑)。
私自身だって、よくわかっているわけではない。
もっとはっきり言えば、「世の中」というものに媚びず、そんなものを堂々述べられるわけではない。

ただ言えることは、自分自身の「固有的な世の中への疑問」として言いたいのは、やはり
なぜ「知識」「知恵」「寛容」が上手くたちまわらないか?というようなテーマである。
人間がこれまで、さまざまな所、さまざまな状況で培ってきたはずの
この世を生きて行くための「知識」や「知恵」それの、さまざまな垣根を越えた広い共有化。
そして、差別や排除ではなく「寛容」性を実現させるためのその方法。
なぜ、こういったことの共有や伝達は、必要性あるはずなのに、はかどらないのか?上手い方法はないものなのか?
こんな疑問から、このブログははじまったというような話は、すでに過去に述べたことがある。
いったい何が「本当に好き」か?については、答えは微妙だ。まさか、細々とこんなブログを書いていることなんて答えるわけには行くまい。
それは本音ではない(笑)。
しかし、こういう哲学的、心理学的なことを述べるための知識をインプットすることなんかは、どうやら本当に好きそうだ。この辺がヒントにはなるのではないかと思う。

③のことは、まさに前回記事で言わんとした内容ともつながる。
経験上、たとえば、私のように、さまざまな場面でのコミュニケーションがあまり上手でないということ。
まさにそのことが機縁で、私のような人間が最終的に大きなトラブルに見舞われてしまわないよう、先回りして物事を考えてくれる人が時に現れたりするものなのだ。
こういったことが、「ふつうでない」「世の中ずれしている」ということで、かえって素晴らしい人間関係を呼び込む場合もあるという例である。
しかし、そんな恵まれた「場合」にのみ期待をしているわけにはいかない。と言い添えることがより誠実であろう。