コミュニケーション、生きづらさに関する思考まとめ④

 

kagurazaka0314.hatenablog.com

 前回記事は、結局きれいごとでしめくくったと思っている。

常識にとらわれないで生きるなんていうことは、

それだけの労力がコストがかかることだし、

それに連れて増加してくる不安感に耐えるだけの精神的タフさも要求される。

つまり、

常識にとらわれないで生きるなんていうことは、やるだけのメリットが感じられないならばやめたほうがよい。

きれいごと抜きに言えばそうなる。

 

しかし、社会や世間の現実がそもそも、このデキソコナイみたいな「自分」に合うわけがないなどといったシニカルな絶望感をもとづいて生きていったらどうなるか?

「生きていく知恵」のようなものが身については行かないだろうか。

場合によって、その知恵を世の中に還元していくといったビジョンって素晴らしくないだろうか?

同じきれいごとでも、こんなきれいごとなら信じて生きてもよくないだろうか?

 

ここで、拙稿の冒頭部分に戻ろう。

コミュニケーションの問題は、人生の選択肢全般にかかわるもの。

「生きづらい」と感じているならば、

 コミュニケーションにおける欠陥によるといって過言でない。

 コミュニケーションは本来的に経験されるものであって、語られるものではない。コミュニケーションが下手だとか思う人は、思ったことを疑問にして投げかけて行く力をつけていくべき。人と齟齬がおきるのではないか?という疑念を減らしていくべき。

「生きづらい」人は、結局どうにかしてその人に合ったコミュニケーションを高めて、深めて行くしかないということが答えである。

「思っている」だけでなく、表現をする。経験値が足りなくてわからないようなことは、「疑問にして投げかけて行く」力を鍛える。

経験値が足りなくてわからないこと」について、「そんなこともわからないのか?」といった感じで、あからさまに差別的意識を持ってくるような相手とは、関わりを積極的に断つようにするといい。

…断っていった結果、ほんの数人ぐらいしか身の回りに残らなくてもそれでいいぐらいの勇気を持てばいい。

もし、(ときに批判されるような)自己表現あるいは疑問点の投げかけなどをしたら、人とぎくしゃくしてしまうのではないか?

などという疑念はすこしずつ晴らしていくべき。

 

社会的な安定なんていうある種の幻想にすがった結果生じる弊害・ストレスより、

積極的に、自分自身に合致した環境や状況を求めていった結果生じる弊害・ストレスを引き受けていくほうが、同じストレスでも納得しやすくはないだろうか?

そのぐらいの「自己責任」意識に生きるべき。と私は思う。

 

はっきりいって、このへんに書かれたこと(あるいはこのシリーズ記事全般に書かれたことと言ってもいいかもしれない)は、

じつは「不安障害」を持つ私自身の心への処方箋なのである。

この記事内容のかなりの部分、私が「師匠」と呼ぶある人物の言葉に着想を得ている。

その「師匠」の言葉で、どれくらい思考が整理され楽になったか計り知れない。

 

最後に、

「師匠」の言葉の一部を紹介して稿を締めくくりたい。

 

「世の中のみんな結局、区別という名の差別だとか価値の貶めとかが大好きなもの。

これどうしてだかわかる?『世の中の普通』っていう幻想をキープするために、差別対象はどうしても必要なものだから。

ネット世界で、匿名でさんざんやらかしてくれてる現代ってだいぶ平和的だよ。

だって、差別も排除もそもそも人間社会に必要なことだからね。」

「その『人間社会』ってのは、はっきりいって『本音を言えない社会』とほぼ同じ意味だな。だれも本音でしゃべっちゃいないくせに『普通は…』『常識では…』なんてのがはじまったら。『あー、はじまったな』ってしっかり見ておけばいい。

正直なところ、差別とか排除に使いたいから、強力な武器として『普通』『常識』とかをつかってるだけの場合が多いもんだから。

「自分の『本音』ってどこにあるよ?

【神楽坂09】君の場合さ、実際は難しいながらも、世の中とギクシャクしないでやっていきたいとかそういうことじゃないのかよ?

ひとつでもふたつでも、そういう技術身につけて行けたんなら、

そういう自分のこと自分で信頼してやってもいいんじゃないか?」

『普通』が何だよ『常識』が何だよ。そんなのは今日も元気に差別とか排除を繰り返してるだけのしょうもないものだよ。

難しいながらも、世の中の一人とでも二人とでも仲良くやれた自分自身のことは、自分自身が認めてやればいいんだよ。自分自身のことは自分で信頼して生きて行けるようになればそれでいいんだよ。