コミュニケーション、生きづらさに関する思考まとめ③

繰り返しになるが、

結局、世間的なコミュニケーションを多少無視してでも、

「自分らしい」生き方や道を選ぶなどということは、社会的なスキル、広く世間に認められる魅力、ふさわしい環境や機会などの要素がすべてそろった上でしか可能でない。

世の中的には、これら要素に恵まれた側の人間の論理が、その人「らしさ」や「個性」といった言葉と間違われやすいものである。

本当の意味でのその人「らしさ」などというものは少し違うのではないかという話は、前回記事後半部分をご覧願いたい。

 

kagurazaka0314.hatenablog.com

その人らしさの発揮とは、

純化して言えば結局、

①人間、全ての人に好かれようとすることは不可能であり、逆効果。ならば、自分のことを嫌いになる人間はどんな人間なのか明確にして回避していったほうがよい。

②自分自身の他人から批判を受けやすい部分を知る。

③批判を受けやすいような部分をあえて自分からさらけ出す勇気を持つ。

④そのさらけ出した部分がきっかけで開始したり、深化した対人関係を大切にしていく。

 このようなコツがあることであり、

べつに多数派世間に背中を向けずどうにかなるならば、そのようにしたらよいものである。

 

問題が発生するのは、あくまで多数派世間に背かなければならなくなった場面なのである。

そういった場合に無理をして周囲に合わせようとすることはもちろんストレスだ。

しかし、たとえその場を引っくり返せる見込みがほとんどなくても、自分を抑えこんでしまうこともまたストレスだ。

このあたりの話は、本稿最大のメッセージとなる部分であろう。

決してきれいごとでは済まされないのだ。

この両者どちらを選ぼうと、人間はストレスの多い世界で生きなければならないような宿命にある。

あなたはどちらを選ぶ人でありたいと思うか?

どちらが素晴らしいとか素晴らしくないとかの問題ではむろん無い。

どちらを選んでもストレスはかかる。

ただ、この世の中、両者どちらも選ぶことができず、結局精神的に追い詰められてしまう人間があまりに多いのが事実ではないだろうか?

 それならば、覚悟を持ってこの両者どちらのストレスを自分は引き受けるかと考えてしまうほうが、現実的対処なのではないだろうか。

しっかり、このへんのニュアンスを言い直そう。

世間の「常識」などといった言葉で、それこそ幼少期から与えられつづけてきた概念は、もちろん安定はしているが、幻想にすぎない。その「幻想」を何よりたいせつに持ち歩き、自己自身がその「幻想」からずれた部分で、時々痛みを感じるのか。痛みに耐えながら、安定を選んで生きていくのか。

世間や世の中が「自分」に合うわけがないといった一種の絶望感をもとに、自分自身の批判されるような部分をもさらけ出し、自分を嫌ってくるような攻撃してくるような環境・状況はうまく避け…といった「生きる知恵」を絶えず培い続ける道を選ぶのか。

という問題である。

 

前述した「生きづらさ」を抱えた人間などは、

この後者を選ぶ以外に道は無いのではないか?

 

ーーーー続く