追悼・日野原重明先生。的な記事。

去る7月18日、聖路加国際病院名誉院長・日野原重明先生の死去が報じられた。

謹んでご冥福をお祈りしたい。

 

私も、学生の頃、日野原先生の著作を読んで、感銘を受けて社会へ出た人間の端くれだ。

看護師として、「社会」に出てみて…。

決して、日野原先生の著述活動を悪く言ったり、その価値をおとしめたりわけではないのだが、

先生が繰り返しおっしゃったような、生命の尊厳性や患者第一主義をこの現実社会に実現させるためには、まず現状のクソ多忙な医療現場や福祉現場の現実業務をもっと効率よくこなす、回転させるようなスキルや才能が不可欠なのだ。

まあ、これ自体極論ではあるのだが…。それは置いておいて。

どこからかこんな声が聞こえてきそうである。

お前さー、

そういうスキルとか才能があきらか足りてない分際で、たとえば日野原先生の仰るような理念とか理想を高く掲げるなよw

…なんていう揶揄をしてくるような(医療内外の)人間を思いっきりディスってやりたいというのが、

本記事の目的なんです(笑)

(ごもっとも、こんな記事にしてしまって、日野原先生にはたいへん申し訳ないですが…)

 

とりあえず、上記のような意味合いのことを言える人間に、これをはっきり言ってやりたい。

【てめぇの食(は)む分の草がたまたま多かったことが、そんなに自慢か!?この豚が!!】

きつい言い方だが、本音である。

遠回しにでも、手前自身の「スキルや才能」は現実に対して十全なんだ。

なんていうことを自慢げに述べることができるような手合いは、しまいには屠殺されて、卸肉にされる手前の足元も見えてないまさに【家畜】としか思えない。

 

日野原先生が仰りつづけていたような言葉が必要不可欠なほど、

それほどこの世の現実は【不完全】だ。

お前の持ち物、持ち味の何が十全であるか?

果たして自分自身がスキルとか才能とかに恵まれていることを自慢げにのたまう場であろうか?この世は?

このあたりの、【疑問】や情熱を、意のあるところを、少しも理解しないような他人との関係性は、もうこの場で切れてもいい。むしろ切れたほうが自分の精神衛生上良い。

ぐらいに感じている今日このごろである。

 

でも、何年かたって、そういう理解がわるいような人間が、「患者」になって病院へ入ってきたりするんだよなー

こんなこと言ったら、日野原先生には大変申し訳ないこと承知で言うが、

そもそもいい死に方できないことが自業自得の家畜みたいな人間が結構いるのが、この社会の現実なんだろうなー

…もうこのぐらい強い調子で、そういった人間との関係は遠慮願いたいというのが、正直願うところであったりする。

 

 

 

「生きづらさ」は、こういう角度からも考えるべき。

前回記事とかを読んで、おそらく誰でも分かる通り、
私という人間は、大概ふつうではない(笑)
不安障害であり、
考えが人格障害的でもあり...。


根本的にふつうでないような奴が、
ふつうな一般的な世の中に、「合わせる」ことのデメリットというものも実はあるのだ。「生きづらさ」は、その角度からも考えなければ片手落ちだ。
これ、内容のほとんど、ある人が言っていた内容の受け売りではあるが、今回はその話。

そのデメリットは、大きく3つある。
①自分の固有的な「世の中への疑問」の芽が育ちにくくなる。
つまり、
現在、まだ常識とはなっていない「新たなもの」への感度が低くなる。
②自分自身が、本当に好きなもの、何をおいてもそれがやりたいというようなものを見失ってしまう。
③合わない人間とも折り合って行くのが上手くなるにつれ、人間関係の質が軽く薄味のものばかりになりやすい。

他人の意見だが、
自分自身の例に照らし、順番に見て行きたい。
まず、①にも②にも、とても分かりにくい使われていると思う。
「固有的な疑問」って何だろう?
「本当に好きなもの?」何だろう?
そういうふうに思うのは、おそらく「ふつう」なのであろう。こんな文章読む必要性ない人なのであろう(笑)。
私自身だって、よくわかっているわけではない。
もっとはっきり言えば、「世の中」というものに媚びず、そんなものを堂々述べられるわけではない。

ただ言えることは、自分自身の「固有的な世の中への疑問」として言いたいのは、やはり
なぜ「知識」「知恵」「寛容」が上手くたちまわらないか?というようなテーマである。
人間がこれまで、さまざまな所、さまざまな状況で培ってきたはずの
この世を生きて行くための「知識」や「知恵」それの、さまざまな垣根を越えた広い共有化。
そして、差別や排除ではなく「寛容」性を実現させるためのその方法。
なぜ、こういったことの共有や伝達は、必要性あるはずなのに、はかどらないのか?上手い方法はないものなのか?
こんな疑問から、このブログははじまったというような話は、すでに過去に述べたことがある。
いったい何が「本当に好き」か?については、答えは微妙だ。まさか、細々とこんなブログを書いていることなんて答えるわけには行くまい。
それは本音ではない(笑)。
しかし、こういう哲学的、心理学的なことを述べるための知識をインプットすることなんかは、どうやら本当に好きそうだ。この辺がヒントにはなるのではないかと思う。

③のことは、まさに前回記事で言わんとした内容ともつながる。
経験上、たとえば、私のように、さまざまな場面でのコミュニケーションがあまり上手でないということ。
まさにそのことが機縁で、私のような人間が最終的に大きなトラブルに見舞われてしまわないよう、先回りして物事を考えてくれる人が時に現れたりするものなのだ。
こういったことが、「ふつうでない」「世の中ずれしている」ということで、かえって素晴らしい人間関係を呼び込む場合もあるという例である。
しかし、そんな恵まれた「場合」にのみ期待をしているわけにはいかない。と言い添えることがより誠実であろう。

人間関係=自発的な「交通整理」論

「生きづらさ」の問題の多くは、
コミュニケーションの充足、不足によって語られるような問題であって、
「生きづらい」人は、それだけその当人に合ったコミュニケーション形式のようなものやそれにもとづく人間関係作りが必須。
前回まで、「コミュニケーション、生きづらさに関する思考まとめ」
と題して、述べてきた文章の主旨はこういう所にあった。
「じょうだんじゃねーよ。それができたら苦労ないよ!」
って声が聞こえて来そうである。
はい。まったくその通り。冗談じゃないです。
そもそもコミュニケーション下手の自分が、深いコミュニケーションなんてはかれる場は、世の中のどこですか?
そう言われたら、まったくもっともな疑問である。
もちろんこれについて「例外的」な答えは書くことができるが、あつらえ向きな答えなど残酷ながら用意することができる問題ではない。
このことに、嘆いてみてもはじまらない。
これが、世の中の現実である。

「この世の中は、生きづらい」という気持ちばかり強まり、だから(私のようにw)精神科を受診しても、
「不安障害」だと診断されるだけ...。特に大きく、根治的な支援が受けられるわけでなく...。
これと似たり寄ったりの経験をさせられた人は、たくさんいるのがこの世の中の実態ではなかろうか?
(わざと、現状の精神医療をこき下ろすことは、論旨ではないのだが...。)
「みんなそういう限界ある中でがんばってる!」
だとかいう説教もあるが、
この世の中で頑張り抜いて、そのへんが結果につながる人は、
それだけ能力、魅力、環境、機会に恵まれた人だ。
それらに「恵まれてない人」は、上記の「似たり寄ったりの経験させられた人」として、出てきてしまうのではなかろうか?

結論から言って、
その「恵まれてない」人は、その「恵まれてない」ことを下手に包み隠さずに世の中とかかわる他ない。
コミュニケーションをできるようになろうと、必死でもがくことで、手をさしのべようとしてくる心の優しい人間が誰なのかわかってくる。そういう人間だけを自分の周囲に残せばよい。
...じつは、自分でも書いていて、何でこんなあっけらかんとしたきれいごとが書けるのかよくわからない(笑)。
書いたような考えで毎日生きられるなら、
それは「不安障害」などとは対極的な状態であろう。
なかなか書いたような考えで毎日を送るの難しいのだが、難しいならば、
これって、自分の頭の中での、人間関係の「交通整理」だと考えたら分かりやすくないだろうか?
ここからは、その「交通整理」のしかたについて述べて行きたい。
言いたいのは、小難しいことではなく、ただ単にこういうことである。

① 自分自身の「できない」「苦手」「困っている」などを表現したとき、共感性を持ってくれるような人は、こちら側へ。
② 共感性とまではいかなくても、「できない」「苦手」「困っている」などの表現をしたとき、その困りごとについて対策を考えてようとしてくれるような人は、こちら側へ。<こちら側、待機。>
③ 「できない」「苦手」「困っている」などの表現をしたとき、真正面から否定的な意見を述べてくるような無神経・無感覚な人は、あちら側へ。
④ 否定的な意見は出てこないまでも、こちらの困りごとに関しての解決につながらない論理で話して来るような相手も、ひとまずはあちら側へ。<あちら側、待機。>

こういう整理をした考え方を、日々自発的にしていく他ないのではないか?
人間関係は、自発的な交通整理であるとは、ここを言いたいのである。
もちろん、ここに記した4種類。「こちら側」「あちら側」「こちら側、待機。」「あちら側、待機。」は決して固定的なものではなく、変動、流動はありえる。
これを変なふうに固定化して考えたはじめた時、人格障害であると言われるであろう。
しかし問題は、「困りごと」を表現するなんてややオブラートな表現をここでは選んだが、自分自身がふつうの世の中より「恵まれていない」などという思考を前提とした表現が、それこそ「人格障害」的でなくて済むものであろうか?
角度を変えれば、そんな前提で、困りごとを相談した際、共感性を持って受け入れてくれる他人とはどんな人をいうのであろうか?
そう。そんな人がどこかにいるかのように考えてしまっていることが、
根の深い幻想である。

幻想である。と、ここまで自分の述べてきたことを結局全批判する形になってしまった。
何でこんなあっけらかんとしたきれいごとが書けたのかよくわからない(笑)。ともう一度リピートしてもよい(笑)。

まとめれば、自分自身がふつうの世の中より「恵まれていない」などという思考を前提として、一般社会の人間に「困りごと」を表現なんかしようものなら、人格障害者的にならざるを得ない。
言いかえれば、上記の①や②の人間が出現してくることなんか期待できなくて当然なのではないか?
この事実から来る困難もさらにまた受け入れる必要が発生するであろう。つまり出口の無い思考なのだ。

こんな出口の無い思考に囚われるほど無意味なことはない。
人間関係は、自発的な交通整理と考え、整理方法を頭に入れておくとすっきり考えられるとは思うが、
①や②の人間がいつまでも出現してこない場合は、早めに、
何かが大きく間違っている。ずれている。(それこそあなたの「能力」「魅力」などがそこにふさわしくない。あるいは「環境」や「機会」がふさわしい状態にない。)と考えるべきというのが、ぜひ「交通整理」方法の⑤番目に置きたいことである。

コミュニケーション、生きづらさに関する思考まとめ④

 

kagurazaka0314.hatenablog.com

 前回記事は、結局きれいごとでしめくくったと思っている。

常識にとらわれないで生きるなんていうことは、

それだけの労力がコストがかかることだし、

それに連れて増加してくる不安感に耐えるだけの精神的タフさも要求される。

つまり、

常識にとらわれないで生きるなんていうことは、やるだけのメリットが感じられないならばやめたほうがよい。

きれいごと抜きに言えばそうなる。

 

しかし、社会や世間の現実がそもそも、このデキソコナイみたいな「自分」に合うわけがないなどといったシニカルな絶望感をもとづいて生きていったらどうなるか?

「生きていく知恵」のようなものが身については行かないだろうか。

場合によって、その知恵を世の中に還元していくといったビジョンって素晴らしくないだろうか?

同じきれいごとでも、こんなきれいごとなら信じて生きてもよくないだろうか?

 

ここで、拙稿の冒頭部分に戻ろう。

コミュニケーションの問題は、人生の選択肢全般にかかわるもの。

「生きづらい」と感じているならば、

 コミュニケーションにおける欠陥によるといって過言でない。

 コミュニケーションは本来的に経験されるものであって、語られるものではない。コミュニケーションが下手だとか思う人は、思ったことを疑問にして投げかけて行く力をつけていくべき。人と齟齬がおきるのではないか?という疑念を減らしていくべき。

「生きづらい」人は、結局どうにかしてその人に合ったコミュニケーションを高めて、深めて行くしかないということが答えである。

「思っている」だけでなく、表現をする。経験値が足りなくてわからないようなことは、「疑問にして投げかけて行く」力を鍛える。

経験値が足りなくてわからないこと」について、「そんなこともわからないのか?」といった感じで、あからさまに差別的意識を持ってくるような相手とは、関わりを積極的に断つようにするといい。

…断っていった結果、ほんの数人ぐらいしか身の回りに残らなくてもそれでいいぐらいの勇気を持てばいい。

もし、(ときに批判されるような)自己表現あるいは疑問点の投げかけなどをしたら、人とぎくしゃくしてしまうのではないか?

などという疑念はすこしずつ晴らしていくべき。

 

社会的な安定なんていうある種の幻想にすがった結果生じる弊害・ストレスより、

積極的に、自分自身に合致した環境や状況を求めていった結果生じる弊害・ストレスを引き受けていくほうが、同じストレスでも納得しやすくはないだろうか?

そのぐらいの「自己責任」意識に生きるべき。と私は思う。

 

はっきりいって、このへんに書かれたこと(あるいはこのシリーズ記事全般に書かれたことと言ってもいいかもしれない)は、

じつは「不安障害」を持つ私自身の心への処方箋なのである。

この記事内容のかなりの部分、私が「師匠」と呼ぶある人物の言葉に着想を得ている。

その「師匠」の言葉で、どれくらい思考が整理され楽になったか計り知れない。

 

最後に、

「師匠」の言葉の一部を紹介して稿を締めくくりたい。

 

「世の中のみんな結局、区別という名の差別だとか価値の貶めとかが大好きなもの。

これどうしてだかわかる?『世の中の普通』っていう幻想をキープするために、差別対象はどうしても必要なものだから。

ネット世界で、匿名でさんざんやらかしてくれてる現代ってだいぶ平和的だよ。

だって、差別も排除もそもそも人間社会に必要なことだからね。」

「その『人間社会』ってのは、はっきりいって『本音を言えない社会』とほぼ同じ意味だな。だれも本音でしゃべっちゃいないくせに『普通は…』『常識では…』なんてのがはじまったら。『あー、はじまったな』ってしっかり見ておけばいい。

正直なところ、差別とか排除に使いたいから、強力な武器として『普通』『常識』とかをつかってるだけの場合が多いもんだから。

「自分の『本音』ってどこにあるよ?

【神楽坂09】君の場合さ、実際は難しいながらも、世の中とギクシャクしないでやっていきたいとかそういうことじゃないのかよ?

ひとつでもふたつでも、そういう技術身につけて行けたんなら、

そういう自分のこと自分で信頼してやってもいいんじゃないか?」

『普通』が何だよ『常識』が何だよ。そんなのは今日も元気に差別とか排除を繰り返してるだけのしょうもないものだよ。

難しいながらも、世の中の一人とでも二人とでも仲良くやれた自分自身のことは、自分自身が認めてやればいいんだよ。自分自身のことは自分で信頼して生きて行けるようになればそれでいいんだよ。

 

 

 

コミュニケーション、生きづらさに関する思考まとめ③

繰り返しになるが、

結局、世間的なコミュニケーションを多少無視してでも、

「自分らしい」生き方や道を選ぶなどということは、社会的なスキル、広く世間に認められる魅力、ふさわしい環境や機会などの要素がすべてそろった上でしか可能でない。

世の中的には、これら要素に恵まれた側の人間の論理が、その人「らしさ」や「個性」といった言葉と間違われやすいものである。

本当の意味でのその人「らしさ」などというものは少し違うのではないかという話は、前回記事後半部分をご覧願いたい。

 

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その人らしさの発揮とは、

純化して言えば結局、

①人間、全ての人に好かれようとすることは不可能であり、逆効果。ならば、自分のことを嫌いになる人間はどんな人間なのか明確にして回避していったほうがよい。

②自分自身の他人から批判を受けやすい部分を知る。

③批判を受けやすいような部分をあえて自分からさらけ出す勇気を持つ。

④そのさらけ出した部分がきっかけで開始したり、深化した対人関係を大切にしていく。

 このようなコツがあることであり、

べつに多数派世間に背中を向けずどうにかなるならば、そのようにしたらよいものである。

 

問題が発生するのは、あくまで多数派世間に背かなければならなくなった場面なのである。

そういった場合に無理をして周囲に合わせようとすることはもちろんストレスだ。

しかし、たとえその場を引っくり返せる見込みがほとんどなくても、自分を抑えこんでしまうこともまたストレスだ。

このあたりの話は、本稿最大のメッセージとなる部分であろう。

決してきれいごとでは済まされないのだ。

この両者どちらを選ぼうと、人間はストレスの多い世界で生きなければならないような宿命にある。

あなたはどちらを選ぶ人でありたいと思うか?

どちらが素晴らしいとか素晴らしくないとかの問題ではむろん無い。

どちらを選んでもストレスはかかる。

ただ、この世の中、両者どちらも選ぶことができず、結局精神的に追い詰められてしまう人間があまりに多いのが事実ではないだろうか?

 それならば、覚悟を持ってこの両者どちらのストレスを自分は引き受けるかと考えてしまうほうが、現実的対処なのではないだろうか。

しっかり、このへんのニュアンスを言い直そう。

世間の「常識」などといった言葉で、それこそ幼少期から与えられつづけてきた概念は、もちろん安定はしているが、幻想にすぎない。その「幻想」を何よりたいせつに持ち歩き、自己自身がその「幻想」からずれた部分で、時々痛みを感じるのか。痛みに耐えながら、安定を選んで生きていくのか。

世間や世の中が「自分」に合うわけがないといった一種の絶望感をもとに、自分自身の批判されるような部分をもさらけ出し、自分を嫌ってくるような攻撃してくるような環境・状況はうまく避け…といった「生きる知恵」を絶えず培い続ける道を選ぶのか。

という問題である。

 

前述した「生きづらさ」を抱えた人間などは、

この後者を選ぶ以外に道は無いのではないか?

 

ーーーー続く

コミュニケーション、生きづらさに関する思考まとめ②

前回の乱文をもう一度整理してみよう。

 

kagurazaka0314.hatenablog.com

 「生きづらさ」のほとんどはコミュニケーション欠陥の問題。

多少、世間的なコミュニケーションを無視してでも、自分らしく生きるということはどういうことなのだろうか?

結局「自分らしい」生き方や道を選ぶなどということは、社会的なスキル、広く世間に認められる魅力、ふさわしい環境や機会などの要素がすべてそろった上でしか可能でない。

そういった要素に恵まれた人たちの真似をすることは、実際にはあまり有効でない。

皆が同じような要素に恵まれているなどということはありえないからである。

ここからスタートし、

「コミュニケーションが下手だとか思う人は、思ったことを疑問にして投げかけて行く力をつけていくべき。人と齟齬がおきるのではないか?という疑念を減らしていくべき。「自己への信頼」を高めて行くべき。」

この言葉の意味合いまでを今回は述べたい。

 

 

「自分らしさ」って、そんなもの出すのか出さないのかはさじ加減でしょ?

なんていうむきももちろんある。

しかし、そもそも「生きづらさ」を抱えてる人間がその「さじ加減」を実現しようとするならば、3重の努力になってしまう。

何が3重か?

まず、何としても社会で「ふつう」に生きていく能力を欠けなく身につけなかればならない。

次に、「自分らしさ」なんていうよくわからない難しいものを確立できていなければならない。

さいごに、「さじ加減」つまり、さまざまな場面に臨機応変に対応できる自分を確立しなければならない。

 

ちょっと待って、3重努力とかじゃなくて、社会人ならこんなことはできて当たり前なんじゃないの?

って思われるかもしれない。

敢えて言いたい。

これを「当たり前」のようにできる人間は、能力、魅力、環境、機会に恵まれた人たちなのだ。

「生きづらさを抱えている人間」の世界はこれほどまでに、(身も蓋もない言い方をしてしまえば)恵まれていない。

 

これでは、「自分らしさ」などと言うと何か、恵まれない人種が世間に背を向けたものか何かのように偏りをかけて考察しているような印象を受けてしまわれるかもしれない。

 

それではここで、「自分らしさ」「その人らしさ」というものを少し別の視点から眺めてみよう。

その人「らしさ」の内容とは、その人間の意思のありようであり、選択の基準となっているものの総称であると言えないであろうか。

これを元に、やや単純化して考えると、「自分らしさ」とは、以下のように物事を考えていけば担保されてくるものではなかろうか。

①人間、全ての人に好かれようとすることは不可能であり、逆効果。ならば、自分のことを嫌いになる人間はどんな人間なのか明確にして回避していったほうがよい。

②自分自身の他人から批判を受けやすい部分を知る。

③批判を受けやすいような部分をあえて自分からさらけ出す勇気を持つ。

④そのさらけ出した部分がきっかけで開始したり、深化した対人関係を大切にしていく。

 

③④の内容など、ただのきれいごと絵空事に感じられるかもしれないが、

「自分らしさ」の確立などといったことは、そういったチャンスや環境に「恵まれる」ことに他ならないというのが持論である。

私はすでに、

「コミュニケーションが下手だとか思う人は、人と齟齬がおきるのではないか?という疑念を減らしていくべき。「自己への信頼」を高めて行くべき。」と述べた。

チャンスや環境に恵まれて、どうにか「自己への信頼」が高まった状況こそ、自分らしく生きることができているということと同義ではないかと思う。

なにも、わざわざ世間的なルール総体に背を向けたものである必要があるものではない。

 

 ――――――続く

 

コミュニケーション、生きづらさに関する思考まとめ①

  • 生きづらさ

コミュニケーションの問題は、人生の選択肢全般にかかわるもの。

「生きづらい」と感じているならば、

コミュニケーションにおける欠陥によるといって過言でない。

コミュニケーションは本来的に経験されるものであって、語られるものでない。

 コミュニケーションが下手だとか思う人は、思ったことを疑問にして投げかけて行く力をつけていくべき。人と齟齬がおきるのではないか?という疑念を減らしていくべき。

これについては後述する。 

  • 「普通」と生きづらさ

「普通」というのは何か?

多数派の論理である。

能力、魅力、環境、機会に恵まれている人間が、中心となり誘導しているもの。

その人たちに有利なルールの総体である。

「普通」と親和性の高い人間というのは存在する。それは、能力、魅力、環境、機会に恵まれていた人であって、コミュニケーションなどの問題においてその人のやりかたはあまり参考にならないということが真実。

能力、魅力、環境、機会に「恵まれなかった」つまり「普通」と遠いところにいるような人は「生きづらい」と感じるもの。

  • 生きづらさと自己流

「生きづらい」と感じる人は、自己流を深めて行けば良いのようなもの言いもあるが、「自己流」やその人らしさなんていうものは、「普通」をクリアした上でなければ、まず世の中に容認されないもの。

その人らしく生きるなんていうことは、決してきれいごとではなく、まず「普通」をクリアした上で世の中に容認されるように、自分をプレゼンして行けといった、非常な努力を要求されるもの。

 

問題は「容認されない…。」なんていう概念より上位に「自己への信頼」を置けるかどうかにある。

 

繰り返しになるが、「その人らしく」、「その人らしさ」などというものは、気持ちがいいから、有利だからで選択すればいいという問題ではない。

ではどうしたらよいのか?

 

――――――続く